桧田先生は、少年期から外科的手術をともなう難病で、大変長い期間(およそ16年間に渡って)、病床で闘病生活を送りました。
当時の桧田先生は、自身の病気を治すために、西洋医学による治療を受けながら、東洋医学・漢方、健康食品、サプリメント、健康に良いとされる水など、あらゆるものを試したそうです。
そして、桧田先生は、当社の理念と同じく、「久病良医」(久しく病を患らった者は、真に患者の痛みの分かる良医となれる、という中国の古いことわざ)の精神で、医師を目指し、見事にその夢を実現されました。
念願の医師となった桧田先生は、研究者の道を進まず、迷わず臨床医師の道を選びました。
そして、自身が以前お世話になったと同じように、外科医の道を進み、広島県立病院、広島大学附属病院、国立大竹病院と多くの病院で活躍し、昭和54年、ついに桧田病院という自分の病院を持ち、院長に就任しました。
また、桧田先生は、原爆投下された広島で生まれ育った経験から、以前より行っていた反核運動である「非核医師の国際会議」のさまざまな活動が評価され、そのリーダーの一人として、昭和60年(1985年)にノーベル平和賞を共同受賞されました。
桧田先生は、その後、地元の名士として、地元の多くの方からの要望で、県会議員となり、国会議員(衆議院議員)となりました。
そして、現在では、日本医師会の中でも高い地位を占める日本医師連盟の参与であり、
(社団法人)日本医療法人協会・特別顧問、
日本統合医療推進協会・特別顧問、
総務大臣所管・日本予防医学推進委員会・最高顧問
など、多くの団体で顧問として活躍されています。
桧田先生の素晴らしいところは、研究者ではなく、医療現場を熟知している臨床医師として、長い経験があるということです。
医療の現場で患者さんと長い間向き合ってきたのは、桧田先生自身が以前、患者であったという経験が大きいと思いますが、
久病良医の精神をもって、臨床の現場に長期間当たり、その後、大変努力をされて、日本の政界や、医師会の高い位置まで上られた方というのは本当に数少ない、稀有な存在であると思います。
●無料健康相談の開催
さて、今回、当社と桧田先生とのご縁がありまして、
また、お互いの理想とする理念が非常に近いということで、
当自然療法研究会の顧問医師を、桧田先生にお願いできることになりました。
しかも、桧田先生は、元臨床医師で、また、自身の闘病の経験から、西洋医学だけでなく、東洋医学や健康食品、サプリメント、水にも大変詳しいです。
そこで、当社の顧客向けに、無料で健康相談をしてくださることになりました。
当社の顧客の方は、当社健康相談票をダウンロードの上、必要事項を記入して、当社宛にFAXまたは郵送してください。
健康相談の準備が出来次第、当社より折り返しご連絡いたします。
無料健康相談票のダウンロードはこちら
●健康セミナー&健康相談会
また、桧田先生の時間が取れるときに、健康セミナー&健康相談会を開催することも決定しました。
桧田先生は、医師であると同時にかつて、衆議院議員でもありましたので、人前で話すことは、とても慣れていらっしゃいますし、大変、お話が上手です。
面白おかしく、健康の重要な話をしてくださいます。
また、健康セミナーの後は、短時間ですが、無料で健康相談もしてくださる予定です。
先生に直接、健康相談(診察)を受けたい方は、ぜひ、お越し下さい。
現在、セミナー会場を探していますので、見つかり次第、お知らせします。
ぜひ、たくさんの方の参加をお待ちしています。
健康セミナー開催予定はこちら (準備中)
セカンド・オーピニオン医師・医療機関の紹介
それから、桧田先生は、日本医師会の重責で、日本医師連盟参与ですから、日本中の医師・医療機関に顔が利きます。
また、自身の闘病の経験から、西洋医学オンリーの医師だけでなく、統合医療、代替医療に取り組む医師・医療機関とも親しいです。
そこで、現在、通院中の方で、セカンド・オーピニオンや、サード・オーピニンを受けたいが、どの医師・医療機関が良いのか分からない、という方のために、桧田先生が主催している日本医療紹介機構にて、ご希望の地域で、最適な医師・医療機関をご紹介する、紹介制度も始めます。
ご希望の方は、紹介サービス申込書をダウンロードの上、必要事項を記入して、当社宛にFAXまたは郵送してください。
紹介する医師・医療機関が見つかり次第、当社より折り返しご連絡いたします。
医師紹介サービス申込書のダウンロードはこちら
ひのきだじん先生は こんな人
(桧田仁先生HPより修正・転載)
桧田仁先生は昭和十七年二月二日、広島県佐伯郡佐伯町津田(現廿日市市)に生まれる。
実父の教師としての仕事の関係で、三歳の折、五日市に移ったから根っからの五日市っ子だし、五日市育ちだ。
今の陽気な桧田先生からは想像すらできないが、小学校へあがってから大学四年までの桧田先生は重い病に苦しんだ。
青春時代は闘病一色に塗り込められているといっていい。
仙腸関節炎という“奇病”にとりつかれた桧田先生は一年の大半はベットで過ごさなければならなかった。
腰周辺の痛みはひきもきらない。中学生になっても、母親に背負われて通学した。
体育の時間はおろか、運動は一切できない。
いきおい桧田先生は読書少年になった。
冒険実話もの、未来科学小説などを片っ端から読破したが、とりわけエジソン、二宮金次郎などの伝記ものに熱中した。
明治維新の思想的支柱・吉田松蔭に強く惹かれたのもこの頃のことだ。
余談だが、学校の校長だった桧田先生の父も松蔭を尊敬しており、先祖伝来の墓石の裏面に松蔭の詠んだ短歌を刻ませている。
「身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも とどめおかまし大和魂」
■ 難病克服して情厚い医師に
そんな桧田先生だったから、地元のお医者さんにはひとかたならぬお世話になった。
医は仁術というが、皆さんそれを地でいくような先生方だった。
桧田先生が医師となろうと決意したのは、病床に伏す間に、自分が医師を業とし、病に苦しむ多くの人達の力になろう思い定めたからだが、
こうした先生方がみんな情に厚い「いい先生」だったことも影響している。
何度か手術も試みたが成功しなかった桧田先生の病は、一年浪人して入学した京都府立医科大学三年の時の、母校での大手術によって奇跡的に完治した。
桧田先生は難病から解放されたのである。
桧田先生が長い闘病生活に勝ち抜いたのは、生来の忍耐強さとどん底にありながらも将来にかすかな光明をみつつ努力を重ねる不屈の根性があったればこそだろう。
だが、それを支えたのは母親をはじめとする家族の愛情だったし、周辺の人々の厚情だった。
生死の境を何度もさまよった桧田先生は思いやりの大切さを学んだ。
昭和四十二年(1967)、同大を卒業した桧田先生は故郷・広島へ帰り、勤務医として働くようになる。
桧田先生が勤務医の大切さを理解しながらも、それに飽き足らず、理想の病院経営を目指して独立したのが昭和五十四年(1979)年のこと。
当初、整形外科医院を開業したが、翌年には内科、外科、小児科、リハビリ科などを併設、初仁会桧田病院を発足させた。
医者として、あるいは医療経営者として独立した桧田先生の念頭を常に離れないのは患者の立場とその家族のことだ。
病人の不安な気持ち、それを支える家族の経済上の悩み。その一つひとつに桧田先生の闘病十六年間の体験が重なる。
桧田先生が初仁会桧田病院スタートと同時に、病院にソシアルケースワーカーを配し、治療費などさまざまな問題の相談に乗るシステムを確立したのはそんな思いからだ。
だが、桧田先生は間もなく大きなカベにぶつかる。
医者として、病院経営者としてどうしても越えることのできないのが、国あるいは県の医療福祉行政だ。
「乃公出でずんば・・・」。(※「乃公出でずんば蒼生を如何せん」だいこういでずんばそうせいをいかんせん の略。「この私が出なくては・・」の意)
桧田先生は昭和五十八年(1983)衆院選、翌年広島県議選に挑戦して、敗退、
その貴重な経験を生かして平成三年(1991)広島県議選に初当選、同七年に再選。
平成八年(1996)にはとうとう衆議院選に当選し、国政壇上におどり出た。
「健康な国づくり・まちづくり・人づくり」日本を健康大国にするという夢に向かって
「希望あるかぎり必ず道は拓ける」を合言葉に今日も走り続ける。
|